良いと悪い、正しいと間違い

「正しい考え方とは」
「正しい発声法とは」
「良い教育とは」

僕は毎日、こんなことを考えたり人に説明したりする仕事をしている。
本業の指導でなくとも「何が正しいんでしょうか?」と、少しだけ経験値と年数があるだけなのに、尋ねられるシーンは日常にしばしばある。

そんな時、僕は「こんな風にしたいのなら、こうするのが正しい」と説明する。
目的が正確に定められていなければ、一つの行いが正しいかどうか断定できないからだ。

世の中には、誰にでも大抵当てはまる「一般論」「セオリー」があって、おおよそ間違いではないことが多い。
「遅刻しないほうが良い」「人の話はちゃんと聞いたほうが良い」「元気に挨拶したほうがいい」とか。

でもこれはあくまで、表面的な社会や日常の動作に関してであり、事象のレベルが深くなると、正解は個人個人でずれてくる。
人生の目的は人によって違うのだから、あたりまえである。
目的をしぼって人に相談すれば適切な答えが返ってくるかもしれないが、目的の定まらない人にはアドバイスをうける資格すらない。

学ぶ、という作業にはコツと技術があり、良い指導をうけても学ぶ技術が低い人はそれを正しく吸収できない。
逆に、指導などされなくとも、自分の置かれた環境から多くを学ぶ人もいる。
これが総称して、「センス」「才能」など、スタート地点から能力が大きく異なる事象の正体ではないだろうか。

良い悪い、正しい間違い、善悪、金、評価、社交、地位、偏差値、学歴、男女、人種、年齢、容姿、他。
これらはすべて、ものの何かを情報的に評価しようとするバロメーターになる。

金が欲しいとか、かっこよくなりたい、わかくなりたい、もてたい、売れたい。
誰かが作ったものさしが、社会のほとんどのひとに多くの影響を生み、競争させ、世の中をまわしている。
競争に酔っている間は面白いが、醒めてしまうと誰かにやらされているようでわずらわしい、というかうざい。

目標の決め方が上手になると、人は物事を早く修練できる。
ものを効率的に考えるよう訓練するのもいい。余計な雑念が消えて、集中力が高くなる。
いい感じだ、必要な事を合理的に、無駄は省いて、排除、排除、排除。

こんな事を何年もしてると手元には「必要らしい」ものだけが残ることになる。
必要なものってなんだろう。誰にとって?何のために?
手に入れた頃には、きっとそれが必要な意味さえわからなくなってしまいそうだ。

創作なんて遊び。楽しくやってりゃなんでもいいんだと思う。
歌だって楽器だって、下手でも楽しくやってればいいし、もっと楽しくするために必要なら練習すりゃいい。
人にどれだけ評価されたって、自分のやっていることが好きになれないなんて、絶対に嫌だ。

「楽しい」を使って自分を高めた人には「モチベーション」が残り、「ストレス」「コンプレックス」をエンジンにした人には、果たされない飢餓感が残る。
何かをしたいなら、成し得たいなら、楽しいことにストイックになればいい。
楽しいことがみつからないなら、見つけるよう努力すればいい。「楽しい」に身を委ねれば、必ず何かあるから。

そんな事を書いていても、その裏で「この言葉は読み手にこう思われるんじゃないか?大丈夫か?」「周りの人に変な奴だと思われるぞ」と自分の社会性がブレーキをかける。
生徒が、知り合いが、家族が、クライアントが。
社会がおまえを疑心の目で見ているぞ、ってな具合で。
うるせー知るかそんなの。

いいじゃん変でも。やりたいようにやんなよ。

って考えた事を、自分とこれを読んでくれてる誰かに伝えたい文章でした。
おしまい。

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