立派な大人

年をとれば、いつのまにか自分が子供の時に見ていた「大人」のような人になるものだと思っていた。

しかし30を過ぎた今、自分が人の親になってもイメージしていた「立派な大人」にはなっておらず、容姿は老け込み体力は落ちようとも、自分の根っこのだらしない部分や卑屈さ、人間的な欠陥はおおよそ改善されていない。

立派な人間を見ると、恐ろしく劣等感が湧き上がり嫌な気持ちになる。
その度に僕のあまのじゃくなイズムと自己防衛のための理論が構築され「大事なのは中身じゃねーか、外面ばかりよくしやがって」とか心の中で悪態をつく。

キラキラした目で爽やかに挨拶されたり、人望があつい人、コンスタントに質の良い仕事ができる人、チームプレイで良い結果を出せる人なんかが僕の嫌いな「立派な大人」だ。
なぜかといえば、自分と正反対だし、自分が手に入れられなかったものだからではないかとおもう。

この卑屈さが、自分の原動力になっている部分はある。
人から学ぶことや人のあり方を否定し、自分なりの考え方を模索していたからこそ、今の自分ができることや生み出しているものがあるのかもしれない。

人の親になった時、親は「子供の見本」であることを要求される。
僕は左利きだし、字は汚いし箸も正しく持つことができない。
家庭という社会で「立派な大人」を要求されながら、「立派な大人」にツバを吐いて生きている自分と折り合いをつけなければいけないというのが、最近のちょっとした悩みだったりする。

僕が子供の時に憧れたのは「楽しそうな大人」だった。
立派な人間になるのも大事だが、自分に嘘をつかないでやりたいこと正直にやる大人になってほしいと、親としてはそんなふうに思う。

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